【読書#45】理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ

<読んだ本>

理不尽な進化 遺伝子と運の間
著 吉川浩満 出版 朝日出版社

<筆者の言いたいこと(200字以内)>

生物の絶滅のシナリオは次の三つに分類できる
1.弾幕の戦場:純粋な運。隕石による絶滅など
2.公正なゲーム:新しく生じてきた種との生存競争の結果
3.理不尽な絶滅:「環境に適応したから生き延びられた」とか
「適用できなかったから滅んでしまった」とはいえないような状況
における絶滅
理不尽さとは、「どうしてこうなった/ほかでもありえた」
偶発的事象にたいして私たち自身が抱く人間的な感覚である。
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<今後に生かす(100文字以内)>
新聞、雑誌、ネットでは「進化論」を引き合いに
競争し、適応し、進化し続けよと言う。
「しかし、モデルとなる生物の世界は、99.9%以上が絶滅する
世界である」
巷の進化論的な言動に左右されてはならないと感じた
/
<その他 気になった言葉>
ゴーギャンは妻子を捨ててタヒチに渡ったが、
そこで多くの優れた絵を描き、人々に認められることになった。
家族を捨ててまでして芸術に賭けた彼の勇気ある行動を、
後世の私たち立派なものとみなして称賛する。
しかし、彼が成功しなかったらどうだろうか。
ただのクズだろう。
ここでは道徳的な善悪が事後的な回顧にもとづいて決定されている。
しかし本来、道徳的な価値というものは、
偶然によって左右されるようなものであってはならない。
ある人が偶然によって、
たとえばくじ引きによって善人になったり
悪人になったりするようでは、
道徳という概念そのものが意味をなさなくなる。
それは偶然性とは対極にある必然性と
一貫性(たとえば高潔な人格)にもとづいて
判断されなかれあならないのだ。
このように偶然性と無縁でなければならないはずの
道徳的価値が、
そのじつ偶然によってもたらされた結果にもとづいて
成立しているということを示すのが、
「道徳的な運」なのである。
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数学者の小島寛之は、
ある棋士の次のような感慨を報告している。
「ホームレスの人を見ると、ときどきこんなことを思う。
あのとき、銀を左下ではなく右下に引いていたら、
今自分はこの人だったかもしれない」と。
棋士はそのとき、迷ったすえに
ほとんど偶然に銀を左下に引いたかもしれない。
それは結果的には正解だったが、それ以降、
棋士には「ほかでもありえた」世界、
つまり銀を右下に引いたことで生じた世界が
つきまとうことになった。
その可能性を付与しなければ、
棋士は自分の現在を正統に評価することができないからである。
もちろん将棋の世界では、
その手が熟慮によるものだったにせよ
偶然によるものだったせよ、
勝ちは勝ちで、負けは負けだ。
しかし棋士には自分の手がほとんど意識的な
ものでなかったことがわかっているがゆえに、
ある種の居心地のわるさというかたちで
形而上の責任を感じるのである。
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自然法則を公式化するさいには、
人間のことなど忘れなければならない。
その意味で、科学活動は人間的要素にたいして
遠心的に働く知の営みである。
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