【読書#93】生きづらさについて考える

タイトル:生きづらさについて考える

著者:内田 樹

出版:毎日新聞出版

<著者の言いたいこと(200文字以内)>

私たちが論理の筋目を通し、論拠を示し、出典を明らかにし、

情理を尽くして説くのは、読者が身内ではないからだ。

「身内」以外の読者が読んでも、共感も同意も期待できない読者が読んでも、

なお読み応えのあるものを書く以外に

新たな読者を獲得する手立てはないと思うからである。

人文学は自分の足元が崩れてゆくような混乱の時代において、

「そいうことはよくある」と腹をくくって、

その状況を生き延びてゆく知恵と力を身に付けるためのものです。

<今後に活かす(100文字以内)>

武道的な意味での「正しい場所」とは「どこでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のこと

というのが面白いと感じた。選択に迷ったときの指針にしたい。

<その他、気になった言葉>

・明日はどうなるかわからない時には「失うべきもの」を

持たない若者たちがやたらに元気がいいのも世界共通だった。

そして、社会が秩序を回復し、いくばくかの「失うべきもの」を手に入れると、

若者たちがいきなり現状維持に転向してしまったのも、

これも世界共通だった。

・論理的な説得や忍耐強い外交努力よりも要するに

「戦争に強いかどうか」で国際社会はその国を認知する。

日本人は義和団事件と日英同盟の歴史的経験からそのような

教訓を引き出しました。

・それぞれの歴史的評価は、学術的に確定された歴史的な史料以上に、

「彼らについてどのような物語が創作されたか」に依存します。

後世にすぐれた物語の書き手を得た歴史的人物は末永く記憶される。

・それは彼らが学校教育を単位や学位という「商品」を、

授業料や学習努力という「貨幣」によって購入するという

商取引モデルに基づいて理解していたからである。

・教育事業の受益者は教育を受ける個人ではなく、

共同体の未来である。

・ある時代における知性の総量は変わらない。

変わるのは、それがどの領域に偏るかだけだ。

・現代日本社会で「隣国から学ぶ」ことの大切さを

忘れているという事実そのものが

「日本が知的後進国に転落した」ことの証なのだ。

そのことに日本人はいつ気づくのだろう。

・家事というのは、本質的には、他人の身体を配慮する技術

なのだと思う。

・「自分が言わなければ誰も言う人がいないこと」を選択的に

言うべきだというのが僕の考えです。自分が黙っていても、

「似たようなこと」を言ってくれる他の人がたくさんいるのであれば、

自分に与えられた発言機会をあえてそのために使うことはない。

・親族や地域共同体やあるいは終身雇用の企業や組合は個人の

発意を社会システムに連接する回路としても機能していたわけですけれども、

そういう媒介的な機能を担うものがなくなってしまった。

その結果、個人とシステムがいきなり向き合うことになる。

システムが相手じゃ個人には手も足も出ません。

・「わが国では「熟議する」というのは、要するに「時間をかける」という

ことであって、議論の質とは無関係であるという語義解釈が定着したのだな」

と納得した。

・そして、経験的に言って、人に諦めの感情を抱かせる

最も効果的な方法は「一方的にうるさく自説を言い立てて、

相手の話を聞かない」ことである。

・かつて「無党派層には寝ていて欲しい」と漏らした首相がいた。

正直過ぎる発言だったが、言っていることは理にかなっている。

それゆえ政権与党は久しくどうやって投票率を下げるかに

さまざまな工夫を凝らしてきた。

そして、彼らが発見した最も有効な方法は

「議会制民主主義はもう機能していない」と有権者に信じさせることだった。

・構成員が民主的な討議と対話を通じて合意形成し、

リーダーは仲間の中から互選され、その言動について

きびしい批判にさらされる「民主的組織」などというものを

今時の若い人は生まれてから一度も見たことがない。

・「今すぐ非を認めて補正した方が良い」と諫言する人たちは嫌われ、

排除され、「全く問題はありません」と言い募る人々が出世を

遂げていったからである。

・営利企業の経営者に例外的な無欲さや公徳心を要求すべきではない。

それよりは社会的共通資本の管理には彼らを関与させないことの

方がずっと常識的である。

・国運が落ち目になるというのは、GDPがどうだとか、

出生率がどうだとか、平均賃金がどうだとかいう

数字の話ではない。「時代の気分」の問題である。

・「貧乏くさい」は「貧乏」とは違う。

1960年代の日本は「貧乏」だったけれど、「貧乏くさく」はなかった。

「銭のないやつは俺んとこへ来い」という雅量があった。

・水道が出なくなったとか、交通網が途絶したとか、

病院が閉鎖されたとか、学校が廃校になったとかいうことと、

ある商品が市場に流通しなくなるというのはまるでレベルの違う

話である。

・「数値的な格付けに基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は

「貧乏シフト」と呼ぶ

・格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。

・独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」

という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認めらない

アカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。

日本の大学の劣化は「貧して鈍した」せいである。

「貧する」ことはよくあることで恥じるには及ばない。

だが、「鈍した」ことについては恥じねばならない。

・研修をスキップしてすぐ仕事ができる「即戦力」を求めるということは、

「人材育成コスト」を外部化して大学に押し付けるということである。

「即戦力」を求める企業は端的に「人を育てる手間と金が惜しい」

と言っているに等しい。

・いまの40代、50代を見ると、どの組織でも、まとまな批判精神がある人間は

出世できていない。

・イノベーションというのは、本質的には

「これまでのどのような「物差し」をもっても考量できないもの」

を作り出すことですからね。

・自分の努力によって「みんな」が幸福になるのを見て

幸福になるというマインドは秀才には希薄です。

・勉強ができるのは自分の努力の成果じゃなくて、ただの遺伝形質なんです。

・どんな分野でも、「才能で食う」というのはほんとうはフェアじゃないんです。

・「みんなができることを、他の人よりもうまくできる」

競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。

こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、

それを生き延びる知恵と力を育てるのには何の役にも立ちません。

・いまの若者たちは総じて自己肯定感が乏しく、自己評価も低い

ですけれど、それは幼い頃から単一の評価基準で査定され、

格付けされ続けてきたからだと思います。

・ボールゲームの本質は何か。それは火星人に「サッカーとは何か」

を説明するとなったら、どう伝えるか、というような想定をすればわかります。

・そういったボールゲームの本質を理解しているプレイヤーと、

ただ身体能力や技術に優れているプレイヤーでは、

パフォーマンスの質や、何より観客に与える感動の質が違ってくる。

世界のトップ・プレイヤーたちは、自分がなぜこのゲームを

プレイしているのか直観的に理解していると思います。

だからトップになれる。

・僕は文学研究をしていますが、自分が人間の脳が生み出した

幻想を相手にしていることをつねに自覚している。

その点では、君たちよりは正気の度合いが高いと思っています

・いつでも「正しい位置」に戻れることができるのが正しい位置です

・「学ぶ」というのは、自分の限界を超えることです。

・どのような組織にも、とっさの判断ができる人、危機耐性に

強い人を適所に配備しておくことが必要です。それは組織論の基本です。

・ところが思いもかけないバッシングを受けました。

「デマを流してパニックを煽るな」というのです。

でも批判の最大の理由は「人が減ると、消費活動が鈍化するから」

ということでした。僕は命のことを問題にしていたのですけれど、

彼らは「金」のことを問題にしていた。

これでは話が噛み合うはずがない。

・制度を働かせるためには人間の弱さや愚かさや頑なさを

勘定に入れなければならない。

・自分には他の人より多くの責務があると感じる人が

いなければ、この社会を住みやすいものにすることはできません。

・国家的規模で「よいこと」を達成しようとしたら、

マキャヴェリのような「性悪説」に基づく、政治的狡猾さを駆使するしかない。

・それは「現在の自分の立場を安泰にしておいて」なされる

未来についての想像は「フェアじゃない」

・紙くずを高値で売り抜けた人間がこの時代で最もクレバーな人間だと見なされた。

・組織の長期的な信頼性や安定よりも、

わが身大切を優先させる人々たちが選択的に出世できる仕組みを作り

上げたこと、それが安倍政権5年間の際立った「成果」である。

・話していて楽しいのは「現場を持っている人」だということです。

・でも、メディアはそういう変化への感知力が落ちていますね。

他のメディアがすでに加工した二次情報を報道して満足して、

生ものに触れて、分析し、解説できるだけの情報処理能力を

持っていない。

・いい人になる。いや、別にならなくてもいいんです。

「いい人のふりをする」だけでいい(笑)

・「公共的な人」というのは、この「物語」に

リアリティを与えることができる人のことである。

それは必ずしもこの「物語」にリアリティを感じている人ではない。

むしろ、「公共という物語」が空洞化していることに不安を

覚えるがゆえに、身銭を切ってでも公共を

立て直さなければならないと思っている人である。

私はそういう人のことを「公共的な人」と呼びたいと思う。

・国民が構造的に「自己肯定感の欠如」に苦しんでいる以上、

子どもが生まれるはずがない。

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