タイトル:天気の子(2019)
監督:新海誠
<この映画の伝えている内容(50文字)>
世界はもともとデタラメである。
みんなを幸せにするために、
一人に不幸を背負わせいいのか?
<感想(ネタばれ含みます)>
天気をコントロールする代償として、
少女が一人消えてしまう。
少年は「水没する大都市の人々の生活」という大義と
「少女の命」を天秤にかける。
そして、若さゆえの勢いで少女を助けようとする。
常識的な大人や警察の忠告を無視して、
世界の形を決定的に変えてしまう。
でも、東京は海を埋め立て拡大してきた都市だ。
海に水没した東京は、かつての姿に戻っただけとも言える。
東京で主人公がお世話になった大人はこう言う。
「自分のせいでこうなったなんて自惚れるな」と
お話が一人を助けるために世界と対峙するという構造になっている。
あながち間違っていないと感じた。
これだけシステム化した世の中に
反逆するためには、世界と戦わなくてはならない。
たとえば、交通事故で毎年何人も死ぬのに、なぜ車はなくならないのか?
車が無かったらコンビニもスーパーも食料品がなくて閉店してしまう。
多くの人が食料不足で飢える。
人が死ぬ数よりも、救われる数が圧倒的に多いから容認されている。
主人公がヤフー知恵袋を良く使う。
そして有益な回答は返ってこない。
考えることを放棄しているから貧しいとも言える。
ジャンクフードでご馳走だと喜ぶ描写がある。
リアルだな、貧しくなっているなと感じる。
<良いと感じた歌詞>
・いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと 肩を組んだ
怖くないわけない でも止まんない
ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない
僕らの恋が言う 声が言う
「行け」と言う
「グランドエスケープ」より
・諦めた者と 賢い者だけが
勝者の時代に どこで息を吸う
支配者も神も どこか他人顔
それでもあの日の 君が今もまだ
僕の全正義の ど真ん中にいる
「愛にできることはまだあるかい」より
<自己犠牲を他者が否定する世界>
日本は自己犠牲の美学を持っていると思う。
太平洋戦争末期の特攻隊はその最たるものだと思う。
大勢の若者の犠牲にした事実が日本を再興させる。
犠牲になる若者もそれで家族、恋人が救わるのならと命を差し出した。
そんな一人よがりが大義だった。
この映画は力のない若者がそれを感情で否定している。
天気と繋がってしまった少女は、自身の命と
引き換えに東京に住む人々と、一人の少年の願いを叶えようとする。
雨から晴れにするという願いを。
少年は雨ばかりの世界でも構わないと、少女の自己犠牲を否定する。
優しさから自己犠牲に走ってしまった人を
他者が止めてやるのが優しい社会ではないか。
一人を犠牲にして大多数が幸福になる社会では
その次のステージに上がれないのではないか。
<須賀というキャラクターについて>
一見わかりにくキャラクターと感じた。
しかし、このキャラクターがこの作品の肝なのではないかと思う。
主人公と対峙する常識的な大人という役割かと思わせて、
最後は主人公の背中を押す。
危険を予知して飛び込まないのが大人なのではないか。
それは常識的には良いことだ。
主人公のように拳銃を持って警察と対峙するのは、
どう考えても狂っている。
狂っている方の肩を須賀が持つのはなぜか?
主人公はこれから先のことなんてこれっぽっちも考えていない。
危険を回避している大人たちがひどく「つまらなく」見えたこと。
主人公が突っ走った先に何が見えるのか見てみたいと思ったこと。