【映画】七人の侍

タイトル:七人の侍

公開:1954年

<言いたいこと>

困難な状況で生き延びる人間集団には常識の異なる者、若い足手まといが必要である。

<感想>

守るはずの農民たちが、

敗残の武士から奪い取った武具の数々を持っていることに

七人の侍たちは「ぎょっ」とする。

守ろうとしている農民は弱いが、善良ではなく残忍なことに。

それに対して農民出の侍見習いの菊千代 (三船)は七人の侍に対して憤慨する

農民がずるくて臆病で卑怯なのは侍のせいであると

侍が野心に駆られて戦をするから、

そのとばっちりを受けて農民は弱くて、ずるくて、残忍でないと生き残れないのだと。

七人の侍 は 菊千代 (三船) がいなければ農民との良好な関係を維持できず、

野武士との戦いに敗れていただろう。

農民と侍の狭間にいる中途半端な人間が組織には必要ということを示している。

侍だけの組織は早晩行き詰る。異業種との交流ができる人を採用して用いる力量がいる。

勝四郎という若い未熟な侍見習いが出てくる。

七人の侍の中では足手まといである。なぜ彼が七人の侍に必要なのか。

六人の侍たちは村を救うというプロジェクトが命がけで

途中で死ぬ可能性が高いことがわかっている。騎馬30 vs 7人+素人で戦うのだから無謀である。

しかも侍的な報酬や大義名分による名誉もない。

力量のない勝四郎はサバイバルゲームから言ったら真っ先に死ぬ者である。

それが最後まで生き残っているのは、彼が生き残るように他の侍たちが配慮した結果である。

若くて一番の足手まといを最後まで生き残らせる行動が取れる状況にすることが

一番七人の侍たちのパフォーマンスが高くなるということを考えた

人事配置となっている。

<メモ>http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.html

五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。

組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。

実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。

当今の企業の人事担当者の中には「平八」と「勝四郎」の重要性どころか、

「菊千代」の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。
リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで「効率的な」組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。
そういう時代に就活をしなければならない学生たちがほんとうに気の毒である。
もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは「若く、非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という仕組みをビルトインさせたシステムであるという「当たり前」のことをビジネスマンたちは忘れている。

「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。
トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。

それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、

まさに静態的秩序をかきみだすことによって、

それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。

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