【読書#77】反教育論

<読んだ本>

反教育論

猿の思考から超猿の思考へ

著 泉谷閑示  出版社 講談社現代新書

<筆者の言いたいこと(200字以内)>

情報をかき集め、既存の価値観の方程式にそれを代入し何らかの解を導きだす作業は、単なる計算作業に過ぎず、真の意味で「考える」と呼ぶに値しない。

真に学ぶとは、誰かの型をコピーすることではなく、
そこからエッセンスを抽出して、

自分に合ったやり方を生み出すことではないか。

人間の思考は、具体的で個別的な問いに端を発し、

そこから問題の本質を抽出するという順番で進むものだ。

<今後に生かす(100文字以内)>

「即興性のない話は、死んだ話であり、

学生はそんな話に興味を持ってくれない」
というのがなるほどと感じた。

自分が人に教えるときは即興性のあるように進めたい。
ポイントを押さえていないとできないと感じる。

<その他 気になった言葉>

・人間は集中力を省略化するメカニズムを備えているので、

予測不能なものには最大限の集中力を発揮するが、

予想可能なものに対して集中力を発揮するような無駄はしない。

・物事があたかも「基礎から応用に向かって」構築されたように

見えてたとしても、実際は、すべて具体的な「応用」のところから

探求されていったものなのだ。

・「ああ、それは「音楽」ではなく「ピアノ道」なんです。」

…先生に言われた通りにやることが何よりも大切なんで、

自分がどう思うかなんてことは、むしろご法度なんです。

だからそこに「音楽」なんて期待しちゃいけません。

・「練習」という言葉や概念自体が、有害で不要なものだとさえ

言えるのではないかと、私は考えている。

・現代を牛耳っている世代が、若かりし頃に若さゆえの熱狂により、稚拙な

「思想もどき」を振り回し「闘争」を行って、それが失敗に終わったということ、そして「反体制」と叫んでいた人間たちがその後、臆面もなく「転向」し、

守銭奴的な経済原理を最優先に据えて「体制」そのものを揺るぎなく形成しているという絶望的事実が、その後の世代に深い幻滅を植え付けたのである。

・もし真に子供にとって「良い環境」があるとすれば、それは、

子供に自分の人生のツケを回したり夢を託したりせず、

愚直に自分自身の生を求めて生きる大人が身近にいるということ。

・「この不毛な勉強をせざるを得ないのは、現代の社会が未熟で不完全であり、自分が生き延びるためには仕方なしに行わざるを得ない必要悪である」と、本人が明確に意識できることだ。

・何しろ試験の成績というものは、本来の知性とは何の関係もないのだから。

・しかし、それはかなり無理のある自己洗脳なので、ついつい二言目には「誰のおかげでメシが食えてると思ってんだ!」「働かざる者、食うべからず」といったセリフを爆発させて、家族から冷たい眼で見られたりするのである。「馬鹿げた禁欲主義」とは、こういうものである。

・学校は本来、労働のための技術を学ぶところではなく、閑暇のあり方を学ぶところである。

・「自分で考える」を他人に教わろうとすること自体、質問の内容に矛盾があることがわかっていないのだ。

・人間の内部から完全に「悪」が排除されるべきだと考えるとしたら、人は不幸になる以外ないだろう。

・「習う」のではなく「盗む」という心構えで臨むのが良い

・「守」に留まったものと、「離」の境地に至ったものとは、

見る眼がなければその質的な違いはわかりにくいからだ。

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