タイトル:先生はえらい
著者:内田 樹
出版:筑摩ブックス
<著者の言いたいこと(200文字以内)>
人間が誰かを「えらい」と思うのは、どういう場合か?
技術には無限の段階があり、
完璧な技術というものに人間は達することができない
完全な等価交換というのは、交換の無意味性、あるいは交換の拒否を意味する
経済的価値って、要するに交換を促す力のこと
使用価値ゼロの商品。それが貨幣
ボールそのもには価値がない
それはやりとりされるものには価値がなく、
やりとりという行為そのものがこの遊びの愉悦の源泉であるからです。
<今後に活かす(100文字以内)>
解釈者の位置に身を固定させるということは、
武道的には必敗の立場に身を置くことだ。
人間はほんとうに重要なことについては、
ほとんど必ず原因と結果を取り違えることを意識する。
<その他、気になった言葉>
・恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、
私にはこの人がとても素敵に見える」
という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しなものです。
自分の愛する人が世界最高に見えてしまうという「誤解」の自由と、
審美的基準の多様性(というより「でたらめさ」ですね)によって、
わが人類はとりあえず今日まで命脈を保ってきたわけです。
・教習所の先生は「君は他の人と同程度に達成した」
ということをもって評価します。
プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか
評価しません。
その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」
という到達点を具体的に指示し、一方の先生は
「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。
ふたりの先生の違うところはここです。ここだけです。
・愛の告白も、恩師への感謝のことばも、どちらも
「あなたの真価は(私以外の)誰にも認められないだろう」という
「世間」からの否定的評価を前提にしているのです。
でも、その前提がなければ、じつは恋愛も師弟関係も始まらないのです。
「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」
という前提から導かれるのは、次のことばです。
だから私は生きなければならない。
・でもね、「だから、どうなんだ」「それがどうしたの?」
というようなエピソードが、実はしばしばあなたのその後の
人間関係やものの考え方感じ方を決定づけた経験だったりするのです。
・親友や恋人か、とにかくそれまでとずいぶん親しさの度合いの違う聴き手を
得たときに、不意にあなたはその「オチのない話」を思い出します
(これは確かなことです。というより、いっしょにいると
「オチおのない話」を次々に思い出してしまう相手のことを
「親友」とか「恋人」とかと呼ぶのです)。
あなたがその「オチのない話」を思い出したのは、
自分が何者であるのかが、この人に話しているうちに、
わかりそうな気がしてきたからです。
・そして、「無知」に支えられない限り、人間は創造的になりえるはずがないのです。
・「大人」と「子ども」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか、という一点にかかっております。
・学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」、
「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。